井戸が眠る

なすくんが笑ってるから今日も五億の星が笑って見える

綺麗なものを綺麗に思うただそれだけのことなんだけど

 

 

全文自己満足です いつものこと

 

今年の年末は正直言うとちょっとほろ苦い。それは好きが変わったとかではなくて、ただ根暗とメンヘラのハーフである私には感情の波がそりゃもうざぶんざぶんあって、私のメンタル状況だとか周りの空気に流される弱さだとか色んなものが重なってるだけなのだけれど、まあ自分の掃き溜めとしてブログをしているのでそんな気持ちも書いておこうと思う。私はすぐにぐるぐる考えて哲学するのが半ば趣味にもなってる気持ち悪いメンヘラオタクなので…暗い気持ち全部置いて新年晴れやかに迎えよう大掃除だ〜!


 

なすくんが好きで、毎日がとても豊かになった。なのに好きだからこそ、勝手に傷ついてしまう日がある。本当に、馬鹿みたいだけれど。

やっぱりちょっと、いやちょっとなんて言ってみるけれど正直めちゃくちゃに苦しくなる時もある。私だって勝手に雑誌や姿を見て得た印象から「なすくんってこんな人」を作り上げてその理想を押し付けて崇めているにすぎないのに、他人の思う「なすくん」が自分と違う形をしていて、その姿がなんだか歪められていたり、笑われたり、嫌われたりすることに、勝手に勝手に傷ついてしまう。こんなのほんとに不毛な傷で馬鹿みたいだけれど、大好きで可愛くて仕方がないから、苦しくなる。

 

結局なにもわからない。わかりやしないのだ。なすくんが本当は大悪党だろうと何が嫌だろうといつどんな時が苦しく辛かろうとなんだろうと私は知らない。私は私の中の「なすくん」を想像で作り上げているにすぎないしきっとその「なすくん」は今同じ舞台同じコンサートを同じ瞬間、隣で座って見ている人にとっての「なすくん」とさえ違う形をしている。こんなに近くで同じ人を見ているのに。

それでも私はそんな、何も知らない「なすくん」が幸せでありますようにと今日も本気で祈っている。それって凄いことじゃないだろうか。何も知らないけれど、私は今思うなすくんを信じているし、もう何も知らなくたって良いから好きだと思ってしまっているのだ。

 

もう、良い。

私がこんなに妄信的に見つめてしまっている「私の中のなすくん」よりも「なすくん」が本当はちょっぴり意地悪だったり、ちょっぴり面倒臭がりだったり、ちょっぴりプライドが高かったり、頑固だったり、ファンのことが嫌になってたり、思っているほど何も考えてなかったり逆に計算づくめで生きていたりしたとしても、結局は良いのだ。良い。まあ人の気持ちは分からないものなので、いつかもしのもし決定的な大事件があったとして、私の思っていたなすくんと全然違ったとして、それがつらくて、裏切られたように思えて(勝手に)、今までの気持ちが時間が全て間違っていたことに気付いて(勝手に)、そんな自分の愚かさに(勝手に)心がぺしゃんこに潰れるかもしれない。そうかもしれないけれど、少なくとも今の私はそんな想像もできないくらい彼の歩いた道筋を、そこから垣間見える気持ちを信頼してしまっているし、もうどんなだとしてもとにかくなすくんに、全世界他の誰でもなくなすくんに幸せになって欲しいのだ。

 

良い。
聖人君子になんて、ならなくて良いから。意地悪になる日があったって、ずるしたくなる日があったって、悔しくて投げ出したくなる日があったって、一人で考え込んでしまう日があったって、良い。歩く道全部に優しい光があたっていて欲しいけれど、全てが正しい道じゃなくたって、全てが完璧に完成して、道徳の教科書で模範になるような心の形をして生きていなくたって、良い。このキラキラしているけれど残酷で、生きた人間として身近で確かに呼吸をしているのに本当は誰かの用意した夢に過ぎないかもしれない、そんな舞台の上の世界で、アイドルとして生きている那須雄登くん。その中にある本当の、まだたった16歳の那須雄登くん。何もかもが大事だ。どれが嘘だとか本当だとかどうでもよくって、全てが混ざり合って今のなすくんがいて、私にとってその今の「なすくん」がとてつもなく大事で、私は彼の言葉や努力や仕草を信じていて、その誠実さや真っ直ぐな頑張りや年相応の笑みに救われていて、それが嘘だとかなんだとか言われても救われた事実は変わりはしないし、悩む日もガチガチに考え込む日もそれを踏み越えて見えていく新しい景色も、とにもかくにも愛おしくって仕方がないのだ。

 

ただこの人に幸せでいて欲しくて(幸せの定義なんてこの世で本人ただ一人にしかわからないけれど)、大きな大きな幸せも、通り雨が外に出た瞬間たまたま止むだとか、なんか食べたいな〜と思ったタイミングでケータリングにその食べ物が出てくるだとか、どんな欲しいものも売り切れずにたまたま買えるだとか、そんな小さな幸せももう全部全部、できるだけ多く降り注いで欲しくてたまらない。

 

一年前、職場の先輩にパワースポットに連れていかれた。連れていかれたというか、ドライブについていったら、実際パワースポット巡りだったという感じだが、とにかく連れられるがままに歩いていくと目の前にそれっぽい大きな石があり、「ほら!願いが叶うらしいから早く祈って!」と突然言われた。決める間も無く手を取られて、とっさに思ったのはやっぱりなすくんのことだった。家族の健康とか仕事の成功とか恋愛だとかと比べて迷う暇もなく、一番最初に脳裏に浮かんだことが「那須くんが元気に楽しくキラキラアイドルになれますように!」だった。その時、思考する前にとりあえず飛び出してきたその本能的な願いに、自分で心の中で笑ってしまった。笑ってしまったけれど、やっぱりそれが答えだった。私だって私の世界に生きているから、もちろん大切な人が病に倒れているのになすくんを優先するだとか、そういうことは結局私はしないだろう。けれど、私はきっとこれから先、なすくんを好きでいる内は(ずっとなんて分からないのであまり言わないようにしている)何かお願いをかけるとき、最初になすくんのことを祈るのだろう。そう、ぼんやりと思ったのだ。

 

そんなことを考えながら年が明けていく。また一つ歳を重ねて、周囲の環境が変わっていく。たまにどうしようもなく「なすくんに会いに行ってる場合なのか?」と思う夜が来る。怖くなる日が来る、ちょっとだけね。

正論だ。私の目は那須くんを見つめるために生まれていないし、私の足は那須くんのためにあるわけではなく、私の人生は私のためにある。誰かのために生きるのって大変そうに見えて献身的に見えて実際物凄く楽で、麻薬的な楽しさが、気持ち良さがある。けれど結局私がなすくんのためにできることはないし、なすくんのせいで何かを失ったと責める資格もわたしにはない。それを忘れてはいけない。

 

良い歳して、男子高校生アイドルに本気で夢を見ている自分、終わってるんだろうか。

辛い時にたまたま雑誌の発言で励まされたり、たまたま聞いた音楽の歌詞に歌声に心から救われて、もう胸が高鳴ってどうしようもなくて、訳もなく泣き出したくなりそうな、そんな気持ちになりながら帰り道を歩いたことがない人がこの世にはいるらしい。前も言ったけれど本気で、本気で凄いと思う。この前違うジャンルのオタクの友人と話した時に「こんなにも魅力的で多種多様な文化がある中で、何のオタクにもならない一般人はこんな興奮を知らずにどうして生きていけるんだろうか」という話をした。その時友人は「オタクの興奮と肩を並べられるのはあとはもう覚醒剤くらいしかない、ヤクをやってしまう前にオタクになれて良かった」と本気で言っていた。その勢いにゲラゲラ笑ってしまったわけだが、でもどっちが勝ってるとかどっちが幸せとかではなく、本当に気になってしまう。

 


こんなに見知らぬ、友達でも家族でも恋人でもない誰かを愛おしむことを知らずに、夢見るようにきらめく舞台を見つめることを知らずに、生きていける強さ。私だって昔はアイドルのこと、若い子向けのコンテンツだと思っていた。アイドルにハマる人を「若いなあ」と思っていた。けれど大人になればなるほど、戻れない郷愁とともにとてつもなくその光に惹かれる。繊細で破れそうな心を抱えて生きてきた思春期を知っているから、仕事をすることの辛さを知ったから、そんな時期にこんなに笑顔で夢を振りまけることの大変さに、尊さに、胸を打たれてしまう。ただキラキラしているだけではなくて、嫉妬だとか才能だとか苦悩だとかそんなものを噛み砕いて、たくさんの悲しい墓標の上を踏みしめて、何も知らないみたいな顔してキラキラ笑っている、その凄さに震える。本当はその背中に何百もの残酷な矢が刺さっているのだとしても、星の煌めきを振りまいてアイドルは笑うのだ。アイドルってすごい。だから私はもっと大人になってもおばあちゃんになってもアイドルって凄いって思うだろう。

 

終わってるんだろうか、とか言いつつ、それを何も知らずに生きる私と、今の私を選べるならやっぱり私は今の私を選ぶ。それって私の中では間違ってないということなので、良いのだ。正しいとか間違ってるとか人生において考えるのもなんだか無駄というか陳腐な気がするけれど。

 

すぐ思考の海にとぷりとぷりと浸かって夢想するタイプの陰キャなので、なすくんに出会わなかった自分をよく考える。前も言ったようにその私は別にめちゃくちゃに不幸になってマッチ片手に冬の路地を彷徨っているなんてことは決してない。

何も知らない私は渋谷のエスカレーターを、大きなポスターの中微笑む彼に「ああ、今日も頑張ろう」だとか「いつかスクランブルの大画面に映る日がきてほしい」だとか胸を震わせていっぱいにすることなく、多分スマホをいじって一瞥もせずに無感情に下がっていくだけだ。男子高校生が楽しそうに笑うのを見て「普通の男の子がこうして笑っている時に銀杏並木を駆け下りてくれているんだ」と愛おしく苦しく思うこともない。焼肉を食べる時にビールの前にりんごジュースを飲んでその甘さに「可愛いな」と思い直したり、ナスとベーコンのトマトスパゲティがメニューにあるだけで意味もなくしあわせな気持ちになってしまったりすることもない。それでもそれなりに幸せにきちんと過ごしているはずの私。

それでも、記憶が消えてもまたなすくんにもう一度出会いたい、とこの歳で思うにはポエムすぎて大変痛々しいことを本気で思う。

なすくんに出会えて良かった。ちっぽけで、人によっては痛々しくて、笑ってしまうほど本当にくだらないことだけれど、私にとっては私の感情は何よりも大事なことなので、何度も、何度も、何度も、そう思う。

 

好きにならなきゃ良かったって思う日も、きっとある。けれどこの一年も、溢れるくらい「好きになって良かった」って思った。辛いこととか悔しいことがあっても「それでもなすくんが好き!信じてついてくんだ見てろよばーかばーか!」と思い直した。なすくんが好きで幸せで、楽しいことが、今年もたくさんたくさんあった。このほろ苦ささえもきっと思い出に、笑い話になる、そう確信している。だってなすくんはどんどん前に進むから。キラキラの星になっていくから。

永遠なんてないけれど、世界は心は変わっていくけれど、新年一発目もきっと私はなすくんのことが大好きだ。

 

それでいい。きっといい。